30年前に、一度来たことがありますが、階段のイメージしか残っていませんでした。
改めて、神話の国であると思いました。
高屋山上陵 (タカヤサンジョウリョウ)
天津日高彦火々出見尊の御陵とされ神代三山陵のひとつ。
歴 史
『
日本書紀』に「葬
二高屋山上陵
一」(
一、
二は返り点)、『
古事記』に「御陵者、即在
二其高千穂山之西
一也」とあり、『
延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在
二日向国
一、無
二陵戸
一」とあるが、当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい。
近世、所在について種々の検討が行なわれ、江戸時代後期の地誌『
三国名勝図会』では
内之浦(現在の
肝付町)がその所在地とされたが、明治元年に
三島通庸らが、明治3年に
田中頼庸らが、1873年(明治6年)に
樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年(明治7年)7月10日、当時の政府によって溝辺(現在の霧島市)の陵がホオリの陵と定められ整備された。これは、これは古事記の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に「鷹大明神社」があったことから、「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたものと考えられている
[1]。
明治5年5月23日に
明治天皇が、1907年(明治40年)10月28日に当時の皇太子(
大正天皇)の代理として侍従の
有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年(大正9年)3月30日には当時の皇太子(
昭和天皇)が
東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に
皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年(昭和37年)5月には当時の皇太子(
今上天皇)と皇太子妃(
美智子)が参拝した。